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全葬連葬儀事前相談員

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葬祭コーディネーターコンテスト

葬儀業者の社員の自己の知識、実演の技術内容・水準だけでなく、消費者・生活者の立場を尊重・理解すること、お客様にどのような印象を与えているかなどの確認を行うことを目的としております。

葬祭コラム

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第20回

遺言あれこれ

 最近、遺言を書きたいという人と多く出会うようになりました。
 「人生の最期を考える段階にきたので」、「どのようなものか試しに書いてみたくて」、あるいは「配偶者から強く求められて」など、その動機はさまざまですが、背景にはやはり社会的な意識変化、そして高齢化にともなう家族のありようの変化といった要素もあるでしょう。
 経産省による「ライフエンディング・ステージ」の取り組みにもみられるように、現代社会では「死ぬこと」も人生設計の一部に組み込まれるようになってきました。その点を踏まえると、遺言を書きたいという人びとが今になって増加したのではなく、もともと存在していた需要が顕在化したとも言えます。
 さりとて読者の皆さんがご存知のように、一口に遺言といっても多種多様です。まず思いつくのは民法上の規定に基づいた意思表示としての遺言(いごん)ですが、法的な効力ということを特に考えないのであれば、いわゆるエンディング・ノートなども当てはまります。さらに範囲を広げれば、生前契約・生前予約の事業にも当然重なってくるはずです。
 そのような昨今の新しい傾向の裏側には、自らの人生を言葉として意味づけしたいという、極めて現代的な欲求の存在を察することができます。もしくは、死んで何も残らないのは嫌だという、人間だけが持つ不安を体現しているとも言えるでしょうか。そうだとすると、戦前に新聞漫画というジャンルを開拓したことで(または芸術家・岡本太郎の父として)有名な岡本一平の次の言葉も、単なる諷刺以上の意味を持ってくるのかもしれません。
 「牛や魚は死ぬ時遺言しない。鳥や松の木も死ぬ時遺言しない。遺言するのは人間だけである。死ぬ時自分以外に他あるを顧みて其処に何か責任上の一言を残して置く。これ人間が万物の霊長たる由縁であらう。」

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第19回

「こころ」の氾濫

 「病人呼ばわりしないでください」「いったいあなたは何様ですか」――なんとも穏やかならぬ言葉ですが、葬祭業者の側から「こころのケア」にまつわる話題を持ち出した瞬間、このような痛罵を遺族から浴びせられたという話をしばしば耳にします。
 遺族の側にしてみれば、「いま初めて会った人間に、自分のこころの中身がそんなに簡単に分かってたまるか」といった心境なのでしょう。あるいはケアという言葉によって、何かしらの心理的な施療が必要な歪んだ人間というレッテルを貼られた気になってしまうのかもしれません。
 もっとも、今や「こころ」という言葉を見聞きしない日はないというのが実情です。かつては多くの時代批評が心理ブームという表現で世相を語り、また精神科医の斉藤環氏による「心理学化する社会」といったフレーズなども流行しましたが、現在では殊更そのように語る必要がないほど、そこかしこに「こころ」が溢れるようになりました。
 誤解を避けるために述べておくと、私自身は「遺族のこころ」や「故人のこころ」をできるだけ汲み取ろうとする態度は、とりわけ葬祭業において重要だと思っています。それでは問題はどこにあるのかと言えば、生半可に「こころの専門家」の立場を標榜してしまうという点に尽きるでしょう。
 心理ゲームよろしく、したり顔で「あなたはきっと、こんな気持ちですよね」と相手の心情を勝手な枠に嵌め込む。一助を担うことを控えめに伝えるならまだしも、香具師のごとく「癒し」をまくしたてる。それらが本当に顧客への手助けになっているかは甚だ疑問です。現代の葬祭業は着々と専門的職能としての地歩を固めていますが、それが傲慢な態度に結びついてしまっては本末転倒。自らの領分を意識しつつ、謙虚に、だがしっかりと顧客に寄り添うというプロフェショナルな姿勢を今後も変わらず保ち続けたいものです。

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第18回

お迎え体験

 死という出来事を婉曲的に表す言葉は昔から色々とありますが、とりわけ「お迎えがくる」は今でも多く耳にするもののひとつです。それでは、すでに他界したはずの親や友人などが本当に迎えにやって来るのだと言われたら、読者の方々はどう思われるでしょうか。
 最近、こうした「お迎え体験」を学術的に把握しようとする試みが注目を浴びています。プロジェクトの中心となった東北大学医学部の岡部健教授によれば、自宅で身内を看取ったことのある遺族に質問調査を行い、回答があったのは五百四十一人。その内の約四割が、息を引き取った家族が「すでに死去した親」や「実際にはありえない風景」など、他人には見聞きできない存在を感じ取ったり、語ったりしていたと答えたのだそうです。
 もっとも、これを一種のオカルトとみなしたり、または「せん妄」、すなわち意識が薄れていく過程で生じる幻覚や錯覚として科学的に説明したりすることも可能ではあります。しかし、この調査では科学的な真偽よりもさらに重要な事実が明らかになりました。お迎え体験に否定的評価を与えた遺族が全体の十九%に留まったのに対して、「死への不安が和らぐ」などの肯定的評価を与えた遺族が四十七%と約半数を占めたのです。
 この結果について岡部教授は「お迎え体験を語り合える家族は、穏やかな看取りができる。たとえ幻覚や妄想であっても、本人と家族が死を受けいれる一つの現象として評価するべきだ」(読売新聞・六月二十一日付)と述べていますが、これは私たちの仕事にも相通ずるものでしょう。探究心の旺盛な人ほど「葬儀の本当のありかた」への強い思いを抱くものですが、お迎え体験をめぐる様相からも垣間見えるように、誰にとっての「本当」なのかを熟慮することも重要なこと。伝統・文化・倫理の担い手としての意識を持ちつつ、一方では顧客の思い描く「本当」にも歩み寄ることができる姿勢を常に持ちたいものです。

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第17回

顰(ひそみ)にならう

 紀元前の中国、「呉越同舟」の故事で知られる越の国に、中国四大美女の一人として後世にその名が伝わる西施(せいし)という貴婦人がいました。彼女は心臓に持病を抱えており、発作が起きるたびに胸を手で押さえながら眉間に皺を寄せて苦悶をやり過ごしていたのですが、その姿にさえ周囲の男性達は艶かしさを感じていたというほどですから、まさに絶世の美女だったのでしょう。
 一方、同じ時代に東施(とうし)という名の女性もいたそうですが、こちらは残念ながら西施とは逆に容姿の醜さで勇名であったとのこと。それでも「美しくなりたい」というのは時代を超えた女性の欲望なのか、西施のまねをして胸を押さえ、眉をひそめて歩き回っていたところ、あまりの不気味さに人々は悪鬼にでも会ったかのように逃げ出したとか。
 ここから転じて、物事の本質を見極めずに他人のまねをすることを「顰にならう」と呼ぶようになりましたが、さて現代の葬祭業者は東施のことを笑えるでしょうか。
 同業他社が新手のサービスを展開し、それが好評を博しているとなれば、すぐ自社にも採りいれなければと思ってしまう切実感もわかります。しかし、それが本当に自社のスタイルに合っているか、そして葬祭業の役割や儀礼文化の意義を損ねないかといった本質的問題を、一歩立ち止まって考えることも必要です。さもないと、「家族葬専門」といった宣伝文句を一度打ち出してしまったために後戻りができず、結果として利益率の悪化だけが残るという事態にもなりかねません。
 人々のニーズや他社の動向を察知することも大事ですが、顰にならってばかりの姿勢では消費者の評価を得られないというものも現在の私たちを取り巻く状況です。「うちは変わりません」というメッセージも含め、むやみに周囲に流されずに本質を追求する態度を強く発信することこそ、今の葬祭業に求められている戦略と言えるのではないでしょうか。

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第16回

セーフティーネット産業として

 孤立死をめぐる報道が相次いでいます。
 この現象が近年に固有のものなのか、それとも以前から存在する問題が(たとえばNHKによる一連の「無縁社会」特集などの)メディアの取り組みによって顕在化しただけなのかという点は、恐らく議論の余地があるでしょう。ただし、いずれにせよ周囲から隔絶したまま、不慮の事故というかたちで誰にも知られず息絶えるケースが増加傾向にあることはたしかです。しかもそれらの悲痛な出来事は、統計的には高齢者・生活困窮者・障害者など、周囲の支えがとりわけ不可欠な人々を中心に生じていると考えられています。
 孤立死に限らず、このような現代社会の歪みは、やはり社会保障上の問題という性質を強く帯びるものです。それは同時に、人々の生活にどれだけ安心を提供できるか、つまり公共的なセーフティーネット(安全綱)をどこまで張り巡らせるかという課題としても言い表せますが、よく考えてみれば今日の葬祭業に要請されているのは、まさにこの「安心の提供」であるとは言えないでしょうか。
 従来の社会保障は、文字通り「よりよく生きる」ための手立てを保障するという考えのもとに展開されてきました。ところが、たとえば経済産業省の「ライフ・エンディング・ステージ」に関する報告書で「よりよく『おくる』」という言葉が打ち出されていることからも察せられるように、安心でよりよい葬儀を提供することは、現在では社会保障に属するテーマとしても焦点化されつつあります。
 一方、葬祭業界の内部では、そのような意識は残念ながら未だ希薄であり、厳しく言えば自分の職業の意義を過小視しているようにも見えます。「隗より初めよ」ではありませんが、葬祭業の高度な公共性と専門性を広く認知してもらうためには、何よりもまず私たち自身が「葬祭業は人生の終着点を受けとめるセーフティーネット産業なのだ」という確固とした自覚を持つことが必要なのです。

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第15回

現代の「あの世」

 三十年以上も前に出版された絵本が近ごろベストセラーとなり、話題を集めているとのこと。さぞかし夢と希望に満ちた物語なのだろうと勝手に考えていたのですが、大きな誤解でした。その絵本を目にすれば、なんと地獄の業火で苦しむ亡者たちの阿鼻叫喚の光景が最初から最後まで埋め尽くしいるのです。
 この絵本は江戸時代に描かれた地獄絵図をもとにしており、その名も『地獄』(風濤社刊)。聞けば購入者の多くは小さな子供のいる親御さんたちで、つまりは絵本を読み聞かせながら「悪さをすると、あの世でこういう目にあるよ」と説いて我が子を躾けたいということなのでしょう。実は、かく言う私も「あの世」の存在が怖かった子供の一人でした。そして、現世とは違う世界がどこかにあり、その世界にいる者たちが常に自分を見つめているという畏怖にも似た感覚は、一方では自らの行いを省みて正すことにも少しは(あくまで「少し」ですが)結びついたかもしれないと思っています。
 考えてみれば、そのような感覚が芽生えるのは、意外と葬儀も契機になることが多いのではないでしょうか。葬儀は現代社会において他界の存在を思い起こさせる数少ない機会であり、時代を経てさまざまに様式はかわれども、死者を前にして行う厳粛な出来事であることに違いはありません。とは言え何事も手早く済ませることが是とされている昨今では、葬儀をあたかも日常のなかの厄介事のように受けとめている人がいるのも事実です。
 ただ、このように生活のなかで徐々に死者や他界といった非日常の存在を感じる機会が消えていくことは、同時に来し方行く末に思いを馳せて自らの行状を振り返る機会の喪失であるとも思われてなりません。もしもそうだとすれば、禍々しい地獄絵図が絵本としてベストセラーになるのも、現代社会が「あの世」の存在をもう一度求めているかのような、そんな風潮のあらわれである気もするのです。

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第14回

携帯電話の悲劇

 その悲劇は三ヶ月ほど前、ニューヨークにある著名なオーケストラの演奏会で起きてしまいました。渾身の力を込めた名演奏が最高潮に達した時、その緊迫感を切り裂いたのは携帯電話の騒々しいアラーム音。しかも一向に鳴り止まず、とうとう指揮者は演奏を中断せざるを得なくなったのだとか。後日談によれば携帯電話の持ち主は新しい機種を買ったばかりで、まさか自分のアラーム音が鳴っているとは思わなかったとのこと。悪意がないとは言え、この時ばかりは会場に居合わせた誰もが「この世から携帯電話など消え失せてしまえばいいのに」と思ったことでしょう。
 しかし現代社会において、携帯電話は消え失せるどころかむしろ生活必需品の地位を確立しつつあり、私たち葬祭業にとっても携帯電話を持たずに仕事を進めることはもはや想像すらできなくなっているのが実情です。また、総務省によれば携帯電話の契約者数はすでに総人口を上回っており、計算上は一人あたり一台以上が普及していることになりますから、こうなると自分だけ携帯電話を持たないというわけにもいきません。
 その一方で、恐らく読者のなかには演奏会で起きた悲劇を葬儀の最中に体験した方も多いと思われます。儀礼の厳粛な空気が携帯電話の電子音によって一瞬の内に壊されてしまうことは、ひとつの葬儀を遺族とともに丹念につくりあげることを旨とする私たちにとって文字通りの悲劇であり、厳しく言えばそもそも死者への冒涜です。それにもかかわらず式中に着信音が鳴り響き、周囲が眉をひそめるという光景が後を絶たないのは、公共性よりも私的な用事を優先しがちな現代社会の慌しさをやはり反映したものなのでしょうか。
 もっとも、悲劇を引き起こすのは会葬者だけとは限りません。携帯電話のマナーについて葬儀開始前にアナウンスした、当のディレクターの携帯電話が式中に・・・・・・そんな最悪の悲劇が起きないよう、くれぐれもご注意を。

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第13回

一年が過ぎて

 東日本大震災から一ヶ月ほどが過ぎた昨年の四月、視聴者からの質問にローマ法王が直接答えるというイタリアのテレビ番組で、日本に住む少女が「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問を投げかけたそうです。それに対する法王ぺネディクト十六世の答えは、次のようなものでした。「私も同じように『なぜ』と自問しています。いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。私たちは苦しんでいる全ての日本の子どもたちと共にあり、祈ります。」(共同通信社ニュース・二〇一一年四月二十二日付)
 私自身はキリスト教徒ではありませんが、この言葉がまずは人間の弱さをしっかりと認識していることに共感を覚えます。ともすれば現代では科学技術があらゆる現象を解き明かし、さまざまな問題が人智によって解決できるはずだと錯覚されがちですが、あの震災のような想像を絶する事態に直面すれば「なぜこんなことに・・・・・・」と誰しも途方に暮れて嘆くしかありません。それは絶大な社会的影響力を持つローマ法王とて同じであり、「なぜ」という戸惑いを率直に吐露している点にむしろ宗教者としての真摯さを感じ取ることができます。ただし法王の言葉は単に人間の弱さだけではなく、死という局面から立ち上がる力強さをも示していると言えるでしょう。
 亡くなった人々の人生がどのような意味を持っていたかを「いつの日か」分かるまで、死の記憶を忘れずに受け継ぐという未来へのまなざし。生きのびたことの苦しみに耐える人々にそっと寄り添い、「共にある」ことで人生を分かち合おうとする共生へのまなざし。考えてみれば、そのどちらも私たち葬祭業がサービスの提供を通じて会社に広めるべきメッセージであるはずです。
 震災から一年。犠牲者と遺族の方々に思いを馳せつつ、あらためて読者の皆様に葬祭業の意義を自問してもらいたいと願っています。

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第12回

顔のみえる葬儀社

 「やっばり、何を考えているか分からない人に大事なことを任せられませんから・・・・・・」
 政治談議にありがちな語り口ですが、実はそうではありません。最近、葬儀直後の遺族と会話を交わすたびに「広告などを見て検討はしたものの契約に至らなかった葬儀社には、いったい何か欠けていたのですか」という質問をするのですが、まるで示し合わせたかのように同じ答えが返ってくることに驚きます。その答えが、冒頭の言葉というわけです。
 私自身は、一昔前と比べれば葬祭業の広告宣伝は格段に洗練されてきたと感じています。そして私が出会った遺族の方々に残念ながら選ばれなかった葬儀社の広告も、パンフレット・新聞広告・ホームページなど種類はさまざまですが、おしなべて清潔感と明朗さに満ちたものでした。ただし、それらの全てに共通していたことがあります。会社としての価値観を伝える「生の声」がどこにも見当たらないのです。言葉を変えれば、それは「顔が見えない」とも表現できるでしょうか。
 高尚な精神論だけで広告が塗り潰されてしまうのも考えものですが、さりとて背後に精神性が全く見えない葬儀社に人生の終着点を委ねようとは、現代の消費者はなかなか思わないのも事実。たとえばパンフレットで社長自らが死生観を語ったり、従業員が日々の仕事に馳せる思いをブログに綴ったりするといった僅かな違いだけでも、消費者の共感につながる可能性は広がるはずです。
 読者のなかには、恐らく「我々はあくまで黒子なのだから」という理由で、そのような広告戦略に反発を頂く方も多いことでしょう。もちろん裏方としての意識を常に忘れないことは、葬儀業者としての適切な態度です。とは言え、やはり自らの会社を選んでもらってこそ黒子も力を発揮できるというもの。そう考えれば、積極的に自らの考えを発信することで「顔の見える黒子」へと脱皮を図ることにも、それなりの意義があるはずです。

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第11回

「にんげん」と「じんかん」

 今の私たちは人間を「にんげん」と読みますが、明治の初めまでは「じんかん」と発音するほうが一般的であったそうです。言われてみれば、確かに「人間万事塞翁が馬」や「人間至るところ青山あり」等の故事成語のように、古くからの言い回しには昔ならの「じんかん」という読みかたを当てるべきだという意見も根強く存在します。しかし、それは単に古式ゆかしい発音を好むということではありません。そもそも「にんげん」と「じんかん」では意味が少し異なるのです。
 現代では、それぞれ独立した一個人といった趣旨で「にんげん」の語を使うのに対し、「じんかん」は文字通り人と人とのあいだ、つまり「世間」や「世の中」を表す言葉でした。そしてまた、このような「じんかん」から「にんげん」へという言葉の変遷は、個人の自立や主体性を重んじる近代西欧の人間観が日本に導入されてきた過程とも決して無縁ではないでしょう。
 一方、その裏では人と人とのあいだを結ぶつながりによって自分が生きかされているという意識が衰退し、言うなれば「じんかん」より「にんげん」に価値を置くようになってきたのも実情です。とは言え、その行き着く先がもしも「葬式は、要らない」といった語り口に代表されるような、人間の生死をも自立や自己決定の理論に帰着させてしまう風潮ならば、それはむしろ老いて死ぬことの孤独と不安を増大させるだけであり、安らかな人生の終着点を提供するものとは思えません。
 その点を考えれば、超高齢社会に突入した現代の日本社会に必要なのは、人間という存在が「にんげん」と「じんかん」の双方のバランスの上に成り立っていることを再認識することだと言えます。とりわけ、昨年の大震災を経でさまざまな絆の大切さが見直しされている今、私たち葬祭業者もあらためて「人間的」なサービスのありかたを省みることが求められているのではないでしょうか。

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